コラム

低山から高山まで、 仲間の親子と登る山々で出会ったこと、思索したこと、 憧れること、悔やむこと、 そして嬉しかったことを綴ります。 親子山学校を貫くインティメイトな山の世界・・・。

一万円札の肖像画でおなじみの福澤諭吉


みなさんは福澤諭吉のことをご存知ですか?身近なところでは一万円札の肖像画でおなじみの日本の偉人です。慶應義塾大学の創立者であり、近代日本の思想、教育などに多大な貢献をした人物ですよね。でも、偉人というくくりで見てしまうと、近寄りがたい硬い人物というイメージが拭えません。私もそうでした。

が、彼が晩年に述懐した口述筆記をもとにした『福翁自伝』を読んで、私の勝手なイメージはことごとく崩壊しました。福澤諭吉って、国家や権力にも束縛されず、自由闊達でユーモアもあり、生涯に渡って独立自尊を貫いた痛快な人物でした。そして、彼が残した言葉の中には、親子山学校が親子登山を通して模索し続けてきた親子の在り方や子どもとの接し方にも、勇気と指針を与えてくれるものがいくつも散見できました。


今回読んだのは岩波文庫版の『新訂福翁自伝』(福沢諭吉著、富田正文校訂)です。


福澤諭吉は天保5年12月12日(1835年1月10日)、大坂にあった中津藩の屋敷に生まれます。中津藩は九州の大分県中津市にあった藩です。諭吉が亡くなるのは明治34年(1901年)2月3日、68歳のときです。

『福翁自伝』の記録は、これより4年前の明治30年に速記者を前に60年の人生を回想したものがベースになり、のちに諭吉自身の手で訂正・加筆して本になったものです。

『福翁自伝』の後半部分に、諭吉自身の子どもの教育方法に触れた記述があるので、その部分を抜粋してみます。


晩年の福澤諭吉


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「子どもの教育法については、私はもっぱら身体の方を大事にして、幼少の時から強いて読書などさせない。「まず獣身を成して後に人心を養う」というのが私の主義であるから、生まれて三歳五歳までは「いろは」の字も見せず、七、八歳にもなれば字の練習をさせたりさせなかったりで、まだ読書はさせない。

それまではただ暴れ次第に暴れさせて、ただ衣食にはよく気をつけてやり、また子どもながらも卑劣なことをしたりいやしい言葉を真似たりすればこれを咎めるだけのこと。その他は一切投げやりにして自由自在にしておくその有様は、犬猫の子を育てるのと変わることはない。

すなわちこれが獣身を成すの法にして、幸いに犬猫のように成長して無事無病、八、九歳か十歳にもなればそこで初めて教育の門に入れて、本当に毎日、時を定めて修業をさせる。

なおその時にも身体のことは決してなおざりにしない。世間の父母はどうかすると勉強勉強と言って、子どもが静かにして読書すればこれをほめる者が多いが、私方の子どもは読書勉強してほめられたことはないだけでなく、私は反対にこれを止めている。

子どもはすでに通り過ぎて今は幼少の孫の世話をしているが、やはり同様で、年齢不似合いに遠足をしたとか、柔術体操がうまくなったとかいえば、褒美でも与えてほめてやるけれども、本をよく読むといってほめたことはない」

*抜粋文は、齋藤孝編訳による『現代語訳福翁自伝』(ちくま新書)から引用しました。

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決して難しい文章ではありませんので、余計な解説は無用かと思いますが、親子山学校のキッズクラスに参加する4歳児から6歳児頃の子どもたちの中にも、教育熱心な親の影響もあってかいろんな稽古事や勉強を習っているお子さんがいます。家庭の事情にまで口を挟むのは憚れるのであえて口にはしませんが、まだ幼い子どもが読み書きを始めとしたお勉強に日々追われているのかと思うと、それより優先すべきは一年中裸や裸足で走り回れる時間と環境を与えてあげることだろうになあと勝手に思っています。

実際、ここに取り上げた諭吉の「子育て論」に通じるような、自然派の幼児保育を実践している幼稚園や保育園、あるいはそうした趣旨を掲げる小学校に通っている子どもたちは心身ともにたくましいものです。眼力が違うし、落ち着きがあるし、子どもながらに自分の中に軸を持っているのが窺えます。結果的に、こうした子ども時代を過ごした者の方が、学業においても実地においても集中力や実行力に勝っているように思います。

我が家の娘を引き合いに出しては恐縮ですが、私の娘も幼児のころから小学校の低学年までは、父親の眼から見ても「この子はちょっとおバカすぎないかな?」とか「絶対に勉強はできそうにないぞ」と真剣に思っていました。幼児期はまったく天真爛漫に育ったのですが、それが10歳前後あたりから恐るべき集中力を発揮して、次々と自分自身で目標を定め、目的を叶える力を発揮し、それは今でも続いています。生まれてから最初の6年から8年の、あの無邪気だった歳月を思うと、彼女にとってはそれが大切な時間だったことが分かります。

我が家の子どもたちがかつてお世話になった小児科医の先生も、「子どもはなるべく野生動物と同じような環境で育てなさい」と言い続けていました。その先生自身、80代の今でも冬でも部屋の窓は少し開け放ち、寝具は枕と薄いタオルケットを二枚、それを敷布団と掛け布団かわりに使って寝ています。歯も全部自前の歯。晩酌は毎晩。玄米も食べるけれど、肉でも魚でもなんでも食べます。実に意気軒高です。

親子山学校に集う子どもたちの中には、学校や保育園では自分の居場所がなかったり、自分の価値を認めてもらえない子も少なからずいます。しかし、そういう子たちほど山登りのときは謙虚に山に向き合い、一生懸命に自分自身と対峙します。ですから、最終的には誰よりも安定感のある山登りが出来る子になったり、誰からも信頼される子になったりします。

ちなみに、諭吉の文章の中にある「遠足」は今の遠足とは様相がちがって、まさに山登りであったり、野山を駆け巡ることに一日を費やす行事でした。「年齢不似合いに遠足」を一年中している親子山学校のキッズたちは、諭吉のように手放しで褒めてあげたい存在なのです。

今から120年ほど昔に書かれた福澤諭吉の思想は、現代においても何一つ古びてはいません。過去や歴史に学ぶことをおろそかにせず、先人たちの言葉に耳を傾ける作業も忘れてはいけません。


*参考文献
『新訂福翁自伝』(岩波文庫)
『現代語訳福翁自伝』(ちくま新書)こちらは現代語に直されて読みやすくなっていますが、抄訳なので割愛されている箇所も多くなっています。全文を掲載した岩波文庫版も決して難解な文ではありませんので、国語力を試したい方や日本の近代史に興味がある方は岩波文庫版をおススメします。



中津藩士時代の諭吉は蘭学を学び、のちに英語にも通じ、日本人が初めて太平洋を渡った咸臨丸にも通訳として乗船。