コラム

低山から高山まで、 仲間の親子と登る山々で出会ったこと、思索したこと、 憧れること、悔やむこと、 そして嬉しかったことを綴ります。 親子山学校を貫くインティメイトな山の世界・・・。

雲取山へ登る子どもたち(2015年4月の親子山学校ジュニアクラス)


先日、滝子山からの下山中のことです。私の前を若いカップルが歩いていました。段差のある露岩の下りがしばらく続くので、追い抜くことも出来ない場所です。やむなく二人の背中を追うような格好で下っていました。

女が後ろからついて来る男に、ブツブツと何やら文句を言っていました。

「なんで私が怒られなきゃいけないのよ」
「いつもそう」
「安達太良山のときもそうだったわよね」

などと言ってます。

私の耳にも彼女の声が聞こえるくらい、女はあたりはばからず憤懣やるかたないという状態です。男もバツが悪いと感じていたのでしょう。何も言い返せずに黙っています。

話を整理すると、要するにこういうことのようです。

女の方はゆっくりと景色を眺めていたい。けれども男はさっさと次に移動したい。この男と女の原初的な差異をめぐる、人類普遍の他愛のないケンカのようです。

二人の姿を見て、思い出したことがあります。かつてドイツに留学したことがある方から聞いた話です。

ホームステイ先のドイツ人の家の娘が、ある日、母親に結婚したい男性がいると告げてきました。

すると母親は娘に向かって、「彼と一緒に山登りをして来なさい」と言ったそうです。

一緒に山に登っても彼とうまく過ごせるようなら、結婚してもいいというわけです。

山登りには大小さまざまな困難がつきものです。下界の物差しを持ち込んでも通用しないことがたくさんあります。体力や根気に欠ける者はつい愚痴を言ったり、弱音を吐きます。あるいは、弱っている者への配慮が欠ける場合もあるでしょう。

要するに、山登りは人間としての地金が露わになる場所です。

そういう過酷で不便で制約の多い場所でも、彼氏と助け合いながら楽しく過ごせるのなら、人生の伴侶に選んでも良いという意味で母親は話したわけです。

なるほどと思いました。さすがはヨーロッパの中でも登山文化が発達しているお国ならではの、微笑ましいエピソードだなと感心しました。

自分の娘にそういうことを言えるということは、その親子の中に、山登りが当たり前のように根づいている証しです。

登山ブームに沸き返る日本ですが、私も含めて同じようなことを言える親は、果たしてどのくらいいるだろうかと思いました。

これは母親が娘に言うから生きてくる話です。

男親にはその資格はないと思います。父親は黙って背中で語ればいいのです。まして息子に言うような状況は、情けない感じがしますね。男子はひたすら孤軍奮闘するしかありません。

いずれにしても、若い娘さんたちはドシドシ山登りをして、健全な生命力と遺伝子がちゃんと備わった、心優しい男性を見つけるのが賢明かと思います。自然界において、オスを選ぶのは常にメスの役目なのですから。

滝子山のくだんのカップルは、次の休憩ポイントの広場まで下りて来ました。二人は木陰にシートを敷いて、仲良く腰を降ろして休んでいました。

山が、日本の恋人たちを鍛えてくれることを願うばかりです。