ジュニアクラス

心身を育んだ子どもたちが、 より高い稜線をめざす「ジュニアクラス」。 歩くチカラから、生きるチカラへ! (写真:八ヶ岳、東ギボシの山頂手前を行く子どもたち)


先日、入笠山(長野県)の下見を終えて、中央本線の富士見駅から上り普通列車に乗っているときでした。鳥沢駅に電車が滑り込むと、プラットホームで列車の到着を待つ大勢の小学生たちの姿が車窓越しに見えました。「ああ、この子たちが乗り込んでくると車内は相当さわがしくなるな」。そう思い込んで私は身構えていました。

ドアが開き、件の小学生たちが続々と乗り込んできました。子どもたちは空いている座席に分散して座りました。私の隣に二人、目の前の席に四人の男の子が座りました。離れた座席にも残りの子どもたちが座った様子です。やがて列車が走り出しました。

しばらくして、なんだか様子がおかしいことに気づきました。


列車に乗ってきた子どもたちからざわめきがまったく聞こえてきません。いったいどういう子たちなのだろうか?と目の前の子どもたちを見ると、全員おそろいの濃紺のザックを足元に置いています。まちまちではあるけれど、しっかりとした登山靴を全員履いています。山登りの帰りであることが、それですぐにわかりました。学年はおそらく6年生だろうと思います。

それにしても、この子たちはとても静かです。目の前の四人の子は、ある子は本を取り出して熱心に読みふけっています。ある子は静かに目を閉じてまるで瞑想でもしているようです。もう一人の子はなにやらメモ帳のようなものを広げて見入っています。そうやってどの子も、個人個人が静かに列車で過ごしているのです。

奥の座席にいる子どもたちはどうだろうかと、視線を向けてみました。四、五人かたまっているグループがなにやら手遊びのようなことを始めていましたが、ニコニコと笑顔は浮かべてはいるものの、大声ひとつ発せず静かに遊んでいます。全員で三十人から四十人くらいはいたはずです。なのにまったく騒ぐ子がいません。

私はもう一度、前のシートに座っている四人の男の子たちを凝視しました。登山靴は相当汚れています。それでどの程度の距離や時間を歩いてきたかが伺えます。それなのに、この子たちはハイな気分にまかせて大声ではしゃぐのでもなく、めいめい静かに自分の時間を過ごしているのです。それぞれの行為は、ほかの友だちにも、ほかの乗客にも、まったく迷惑のかからない自立した過ごし方ができているのです。引率の先生が車内を歩きまわる様子はまったくなく、凛とした子どもたちの静寂な時間だけが、列車内にただよっています。

彼らがその日成し遂げた山登りが、どういうものであったかは分かりませんが、その子たちは誰一人それに酔うこともなく、ごく当たり前のことをやってきただけという涼しい顔で、登山から解放された時間に身を置いているのです。これは一度や二度の行事で身につくものではありません。おそらく日頃の学校生活すべてが、自立した個を礎にした教育方針で一貫しているのでしょう。念のためもう一度言っておきますが、彼らは小学生です。今の時代に、こんなにも落ち着きのある小学生の、しかも団体に出会えたことに、私は深く感心しました。

「どんなに険しい山でも静かに歩き、不満をいちいち口に出さず、何事もなかったかのように涼しい顔で下山するのが最高にかっこいいんだよ」と、常々「親子山学校」の小さな子たちには話してきましたが、そういうことが出来る子はまだまだ少数です。けれども、その日、私の目の前にいた子どもたちはまさに理想とする登山者の姿そのものでした。大人でさえ、こんな登山者は稀です。やり遂げた山を自慢するのでもなく、山と無関係なことで騒ぐのでもなく、そのどちらでもない空間に自然に身を置けることのなんと清々しいことか。

子どもから学ぶ。子どもがお手本になる。私の凝り固まった価値観がまたシャッフルされて、学びと気づきの大きな光景となりました。