晴登雨登「ゆっくり歩く練習」
第十一回 ゆっくり歩く練習
山学校の子どもたちと山に登っていた時で
す。先を歩いていた女性登山者が、私たちに
気づくと「お先にどうぞ」と道を譲ってくれ
ました。私が礼を言うと、彼女は「いえ、ゆ
っくり歩く練習をしているので気になさらず
に」とおっしゃったのです。
〈ゆっくり歩く練習〉という言い回しが耳に
残り、そのあともしばらく考え込んでしまい
ました。病気かケガでもしてリハビリ中か、
単に体力がないからなのか。私にはわかりま
せんでした。
それからしばらくして、三冠王を三度とっ
た元プロ野球選手の落合博満さんが、打撃不
振に陥った時の独特な練習方法を知りました。
落合さんはあえて超がつくほどのスローボー
ルを打撃投手に投げさせて、それをひたすら
打ち返す練習をしたそうです。山なりに飛ん
でくるスローボールを、バットの芯で捉える
のはプロでも難しいそうです。普通は速球を
どう打てるかと考えがちですが、打撃の達人
は速球とは正反対のスローボールを打つ練習
を繰り返したのです。
山道で出会った〈ゆっくり歩く練習〉をし
ていた女性と、〈落合さんのスローボール〉
が私の中でつながりました。私は「よし」と
ばかり、山でもゆっくりと歩いてみました。
ひたすら段差の少ないラインを選び、テンポ
はゆっくりと一定のまま心拍数を上げない歩
きを徹底しました。上体をしっかりと起こし
て歩くことも意識しました。視野も広がり、
気持ちに余裕が生まれるのを感じました。
いつもなら見逃してしまう足元の野花にも目
がいきました。ゆっくりと歩けば、たとえ転
んでも衝撃は少ない。ゆっくりと歩く時の
〈距離と時間の感覚〉さえ身につければ、
高齢になっても身の丈にあった登山がまだま
だ出来そうだぞ。そう思うと、ゆっくりと歩
くことにはメリットしかないことが分かりま
した。
(初出:月刊誌『女性のひろば』2024年6月号掲載)