活動の柱

「親子山学校」が大切にしている考えや取り組み方を ご案内しています。


「なぜ同じ山に登るのか なぜ繰り返すのか」

親子山学校を始めた頃は、私もまだ40代でしたから体力も十分にありました。自分の二人の子どもも、まだ無邪気な小学生でした。

二人を連れてあちこちの山に登りました。それが一つのバロメーターとなって、「この山は使えるな」とか「このルートは面白いぞ」などと感じては、それを親子山学校のプログラムに組み入れたりしていました。

山の数も現在のキッズクラスで年間に登っている数より、多かったと思います。また、今より遠出もしていました。(千葉の山、丹沢の山、奥多摩の山など)

そのうち私は、だんだん分かってきました。子どもにとって、あちこちの山へ引き回したところでそれほど記憶には残らず、身に付くことも少なく、価値は薄いぞということです。

それよりも慣れ親しんだ山に、季節を問わず通い続けることの方が、子どもにとっては安心して通える場所であり、深い学びが得られるのだと気づいたのです。

山登りに夢中になってくると、あの山にも登ってみたい。次はあそこと、どんどん欲が出てくるのも分かります。けれども一回限りのピークハントでは、その山を知ったことにはなりません。

一つの山をあらゆるルートから登ってみる。あらゆる季節に登ってみる。あらゆる天候の日に登ってみる。その方が登山技術は上がるということなんです。

ですから私は、百名山に登ったことを自慢するような登山者を信用していません。

「あなたは、その百の山の、すべての季節を登っていますか?すべてのルートを登っていますか?」と尋ねれば、答えに窮する人がほとんどだと思います。

考えてみて下さい。あらゆるスポーツには、日々の練習や稽古をする場所が決まっています。

剣道や柔道には道場があります。そこには師範がいます。野球やサッカーにも練習グラウンドがあります。そこには監督がいます。水泳にも泳ぎを教えてくれる、コーチのいるプールが決まっています。ピアノやヴァイオリンだって、同じように教室が決まっています。

剣の道を志す少年少女も、道場で汗を流したり悔し涙を流したりしながら、腕を磨いたり悩んだりします。道場は技術を会得するだけでなく、思考の場でもあります。

音楽の世界でもそうでしょう。技術だけを教わっているのではないはずです。音楽を通して感情であったり洞察力であったり、想像力も同時に求められているはずです。

いずれにしても、ほとんどすべての習い事には必ず自分の汗が染み込んだ、そこの間取りや匂いや、共に学んだ仲間の顔も思い浮かべられるくらいに慣れ親しんだ、小宇宙のような決まった場所があるのです。このことは、子どもの情操教育上でも大事ではないでしょうか。

そうした道場のような場所での日々の研鑽が基本にあって、そのつど真剣勝負の場に出ていくのです。

そして、その試合や表現に納得できずに終われば、次の「本番」に向かっていつもの道場や教室に戻り、基本にかえって練習をする。稽古をする。

柔道なら受け身を繰り返す。剣道なら素振りを繰り返す。何度でも何度でも反復する。そこには「この稽古は飽きた」からとか、「こんな稽古は不毛だ」からやらないということは一切ありません。物事の極意は、常に基本になる動作の反復を、飽きずに続けるところから得られるのです。



親子山学校で通う山々は、いわばあなたと子どもの道場であり、グラウンドであり、教室ではないかと思うのです。私自身、そう思って通っています。

そこで稽古を積んでいる私たちの「本番」とは、エベレストに登ることではないはずです。それは、毎日の暮らしや仕事であり、未来に向かう子どもたちの生きる支えになってゆくものであらねばなりません。

そうであるならば、「この山は登ったから、次は違う山に登りたい」というのは、話が違ってきます。自分の道場や教室も持たずに、まだ未熟な者がどうやって腕を磨き、心身を鍛えられるのでしょうか。

あなたと子どもの道場は高尾山や陣馬山であり、もっと言えば、いつも繰り返し歩いている山道の上が私たちの道場ではないでしょうか。

登山道って単に山道のことじゃなくって、武道や茶道や華道のように、「山登りを通して自身を鍛え、極めるための道=登山道」として考えると、その大切さが分かると思います。

私は親子山学校に通う現代の子どもたちに、自分の道場や稽古場を持ち、そこでリアリティーのある汗と涙を流すことの尊さを知って欲しいと願っています。

私たちの教室はとても地味かも知れませんが、心おきなく自分の非力や手応えを感じる場所であることに気づいて欲しいのです。

ここではないと思うなら、自分を磨けるほかの「道場」や「流儀」を見つければ良いのです。

私の流儀は変わりません。深めることはあっても、変えることはないでしょう。何年経とうとこれが親子山学校の流儀ですから、安易に流されることはしません。私自身、まだ道半ばです。これからも頑なに反復し、繰り返す山登りにこだわり続けます。

親子山学校で登っている山が、現在のように限定されている理由がここにあります。

2020年12月1日
親子山学校
主宰 関 良一

(2020年12月1日に、親子山学校のメンバー宛てに書いた文章を一部、加筆・訂正して掲載しています。無断転載等は固くお断りいたします)