山と作文
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〈合宿のたびに作文を書かせる〉
親子山学校では山小屋に泊まって行う合宿を年に三、四回行います。合宿の区切りには、子どもたちに作文を書かせます。
高学年になるほど作文を書かされます。山登りだけをやるつもりでいた親子メンバーは、まずこの時点で面食らうでしょう。
中でも真剣に作文を書かなければならないのが、6年生で迎える最初の春合宿です。合宿では6年生一人ひとりと対話を行い、子どもたちが抱えている悩みや弱点をとことん吐き出してもらいます。そうして合宿の最後に書くのが、「一年後の自分との約束」を綴った作文です。
一年後、卒業を目前に控えた最後の冬合宿で、6年生たちは再び作文に挑みます。そこでは「自分にとって親子山学校とは何だったのか」と振り返る作文を書きます。
一年前に書いた作文といちいち擦り合わせることはしません。子どもが自分で決めた約束が果たせたか果たせなかったか、それはもはや問題ではなく、最後の冬合宿で書いた作文を読むだけで十分だからです。
子どもに作文を書かせる行為は、高所登山に特化した「こども山岳塾」のクラスでも、山行が終わるたびに書かせています。山岳塾では高学年に限らず低学年の子どもにも書かせます。
〈自由と理性を磨く行為〉
作文は、親子山学校で山登りをする子どもたちが行った行為を振り返り、自分や仲間を、向き合った自然や環境を、冷静に見つめて血肉としていくための大切な行為になっています。
最初の頃は書くのが苦手な子どもがほとんどです。どこかで教わった「正しい作文の書き方」のような、紋切り型のマニュアル通りに書いてくる子どもに対しては烈火の如く叱って書き直しさせます。子どもの作文には、それほど厳しい要求をします。
だからといって、こう書きなさいとも一切教えません。書き方はあくまでも自由です。自由だからこそ、選びとった言葉や文章が、本当に自分のものかどうかが問われるのです。
こうして親子山学校に何年間も在籍して山登りを続けながら、折々に作文を書いてきた子どもたちは、間違いなく自分の頭で物事を主観的にも客観的にも冷静に言葉にして組み立てる表現力を身につけていきます。
〈作文力を育んだ公教育〉
親子山学校は、なぜそこまでして子どもの作文にこだわるのか。
今から80年以上も前の、戦争に敗れた戦後の日本が、わずか二十年足らずで驚異的な復興と発展をとげた理由はいろいろありますが、私は戦後の公教育、特に小学校で全国的に行われた〈作文教育〉の成果が土台の一つにあったと考えます。
国破れて山河ありの日本で、新たな教育に情熱を抱いた全国の教員たちは、作文教育を通して子どもたちに自由な表現を綴ることの喜びや自分の視点で物事を観察するチカラ、感受性を言語化していく面白さや深さをあまねく教えようとしたはずです。
そうした取り組みの成果が、やがて子どもたちが青年になり社会人になり、労働者階級に属しても新聞や本を読み、人前での発言も堂々とできる日本人を社会の隅々にまで送り出したのです。こうした教育の成果が、世界が驚愕するほどの経済発展にも寄与したのではないでしょうか。
〈身体を通してしか学べないものがある〉
現代の子どもたちは、タブレットやパソコンを使った教育を受け、私生活でもスマホを与えられたりYouTubeのようなサイトを好き放題に見られる環境にいます。AI(人工知能)の進化はめざましく、すでに社会の広範囲に浸透しています。しかし、リアルな体験とは似て非なるデジタル空間だけで育ち、基本的な情操も理性も欠落したままで大人になってしまう若者や大人がすでに現れています。
これに抗う行為は、身体を通して反復しながら身につけていく行為しかありません。
歌舞伎のような伝統芸能、武術や茶道のような求道の世界では、どんなに人工知能に囲まれた社会にいようとも、身体を通して基本の型や作法を反復する行為をやめようとはしません。
なぜなら、彼らは身体を通してしか会得できない技や表現があることを知っているからです。それが揺るぎない芸や世界を象っているのです。
作文をするという行為は、子どもにとっても感情や理性をコントロールするための簡便で有効な学びの一つです。
山登りも同じことで、どんな子どもでも歩いて歩いて歩き続けるうちに、五感が磨かれ、深く思索する力が鍛えられます。それらが土台となって、やがて成人した後でも、自分の頭と自分の身体で物事を判断したり、乗り越えていける人になると確信しています。
親子山学校が、子どもに山登りと作文をやらせている理由がここにあります。