君はノーサイドの笛が聞こえているか〜20年目の卒業式に臨んで〜
私は、卒業証書授与とは次のように執り行うべきであると考える。
卒業証書を手渡しする子どもが百人いるとしたら、一人ひとりに講評を加えながら渡すことがあってはならない。百人の卒業生全員に、何もコメントすることなく、厳粛に淡々と卒業証書を渡すだけでよい。
もし講評を加えながら卒業証書を渡すとなれば、私も人間である以上どうしても渡す子どもによって感情のばらつきが生じてしまう。
「きみは勉強もよくできたし、運動会でも大活躍で、クラスメイトのためにもよく尽くしてくれたね。先生は君が卒業してしまうのが本当に残念だよ。六年間ありがとう。そしてご卒業おめでとう」と言える子どもがいる一方で、もう一人の子どもにはこんな気持ちしか湧かない場合だってあるかも知れない。
「きみは確かに勉強は学年一できたけど、勉強以外のことには無関心で、クラスメイトと一緒に取り組むことにも協力しない実に冷たい子だったね。先生は君がやっと卒業してくれてせいせいするよ。はい、おめでとう」
大袈裟かも知れないが、講評を加えるとこんなことが起こりかねないし、公平を目指して言葉を選んでみても、聞く側の解釈で「ちっとも私を誉めてくれない」となる場合もあるのだ。
どんな子どもも最後は対等に、公平に卒業していく権利があり、送り出す側にもそこに差をつけるようなことがあってはならないのだ。最後はどの子に向かっても、同じ心で淡々と卒業証書を渡すことが教育者の矜持であらねばならないと私は思う。
ラグビーで言うならば、ノーサイドの精神だ。
自陣と敵陣に分かれてぶつかり合い、勝ち負けがついても、試合終了のノーサイドの笛が鳴った瞬間に自陣と敵陣のボーダーは消える。ルールに則り、知力と体力を尽くして戦った者に勝者と敗者のレッテルを与えるのではなく、ノーサイドをもって戦った者たちを讃え、ゲームに幕を降ろす精神。
私の考える卒業証書授与は、これと同じでありたいと願う。私が親子山学校のメンバーの利己的行為や、利己的な評価を求めようとする一切を拒否する理由もそこにある。と同時に、私自身にも問いかけている。
お前はノーサイドの笛が聞こえているかと。
2023年2月27日
親子山学校
関 良一