ジュニアクラス

心身を育んだ子どもたちが、 より高い稜線をめざす「ジュニアクラス」。 歩くチカラから、生きるチカラへ! (写真:八ヶ岳、東ギボシの山頂手前を行く子どもたち)

甲斐駒ケ岳山頂直下の登り(2018・8・12ジュニアクラス)


親子山学校は「キッズクラス」と「ジュニアクラス」の2クラスに分かれて活動しています。小学生だけで構成されるジュニアクラスの主役は子どもたちであり、親御さんが参加できる山行は限られています。在籍する子どもたちは、6年生で卒業するまで年間を通して山登りを続けることが前提です。やることは単純ですが、継続することは簡単ではありません。薄弱な意志は、山ではすぐに見破られます。独りよがりな姿勢、集団に紛れ込んで関わりを避けようとする姿勢、そういう消極的な姿勢ほど実は目につくのです。中途半端な姿勢で継続しても、それはなんの為にもなりません。

君の山はほんとうに「大切なもの」なのか?

ジュニアクラスの親子メンバーに問いかけた文章を、一部加筆・訂正してここに公開します。



雲取山へ向かう朝(2018・8・26)


■山は本当に「大切なもの」ですか?

お子さんはジュニアクラスの山登りに夢中になれていますか?参加している親子にとって、ジュニアクラスの山登りが「本当に必要で大切なもの」であるのか、その気持ちが親子とも一致し、子どもの主体性の為に背中を押せる親であり、その為の労力を6年生の最後まで惜しまずに傾けられなければ、ただ時間とお金の無駄になるだけでしょう。中途半端というのが、子どもにとっては一番ためにならない状況です。

今年春の卒業登山で、卒業生への式辞の中でも話しましたが、「精力善用・自他共栄」(嘉納治五郎・講道館柔道の創始者)の精神に欠ける子どもは、ジュニアクラスが目指す山登りとは次第に相容れなくなって行くでしょう。独りよがりな山登りや、この山さえ登れれば…という気持ちがひとかけらでもあれば、その子の目的はそこで毎回終わりです。自分を見つめ、仲間を見つめる視野は、いつまで経っても深まることはないでしょう。ジュニアクラスの子どもたちに登山を通して求めることは、「利他的行為こそが、真の英雄」であることを知って欲しいのであって、私たちのめざす親子登山が利己的行為の場であってはなりません。

山はいつでも私たちを待っていてくれます。しかし、人間が行うあらゆる習い事は身体で覚え、掴み取ることを常とします。日々の鍛錬や反復を避けては、なんら向上することも、極意に触れることも出来ないでしょう。同じことの繰り返しの中にこそ、新たな発見や気づきがあるのであって、自然もまた決して一様ではありません。

前衛舞踏家の田中泯(たなか・みん)は「伝統芸能の世界に生きる人たちは、なぜ毎日毎日、飽きるほど同じことを繰り返すのだろうか。でも、繰り返すことの中にこそきっと秘密がある」と悟りました。私の求める親子登山も、そこに秘密が潜んでいると確信しています。繰り返すこと、続けることに耐えて行くことが、子どもにとっても必ず光明を見つける唯一の方法だと思うのです。それは登山だけに限ったことではありません。子どもが飽きずに取り組めるのなら、それは音楽でも構わないし、数学の世界を探求することでも良いのです。本気で夢中になれるものでさえあれば。

今一度、ジュニアクラスの山登りが「本当に必要で大切なもの」かどうかを、親子でしっかりと話し合ってみて下さい。心から好きになれないものは、さっさとあきらめて別な世界を覗いてかまいません。

しかし、何事も継続した時間とその為に費やしたいくつかの試行錯誤と、それらを何度も組み合わせては考え続ける根気、そうした行為の積み重ねでしか物事を真に会得することはできないはずです。

2018年8月30日
親子山学校
主宰 関 良一


下山まで残り20分。鼻血を出して歩みを止めた女子に付き添う