反復することの意味
「反復することの意味」
■すべては反復からはじまる
この世に、反復練習せずに会得できる習い事やスポーツはあるでしょうか?それは皆無だと思います。
野球、水泳、サッカー、バレエ、バイオリン、ピアノ、書道、そろばん、囲碁、将棋、なんでもそう。すべて反復練習が欠かせません。これらに共通するのは、頭だけではなく、身体を通した反復運動によって会得する要素が大きいことです。
山登りも、その例外ではありません。
親子山学校が、毎年同じ山に子どもたちを登らせるのも、この原理原則にならうものです。子どもである限りは、何度でも同じことをさせなければなりません。なぜならば、子どもは反復しながら物事の成り立ちを理解し、学びを深め、成長していくものだからです。これは大人も同様です。
たとえば、親子山学校のキッズクラスで登る山は、七つか八つ程度です。それらの同じ山を、毎年繰り返し登っています。それ以上に増やさないのは、親子登山に必要な心身と基本を身につける場所として、それらで十分な要素を持っているからです。
■繰り返すことを恥じてはいけない
親子山学校では、山登りを通して子どもに<歩くチカラ>を身につけることを基本に置いています。それが子どもたちの、<生きるチカラ>へと結びつくことを願って取り組んでいます。大げさに言えば、山登りは人間の土台をつくる運動です。それには、反復することでしか叶えられないものがあるのです。
しかし、同じことを繰り返せない現代人が増えているように感じます。同じことを何度もやるのは進歩がない、新鮮味がないと捉える意識がどこかにあるのでしょう。親子山学校にやってくる親子の中にも、二年目、三年目となるにつれて、同じ山に登ることに飽きてしまうのか、「なんで同じ山に何度も登らされるのか」といった姿が見受けられます。
こうした傾向はSNSやゲームなどの普及と重なっている気がします。次々と新しいものに更新しないとやった気がせず、不安になるのでしょう。より強い刺激と効果を求めるのと同じで、それは中毒症状と変わりません。次々と目先を変えても、理解を深めることにはなりません。子どものうちから、そうした習慣を当たり前にさせてはいけないのです。
■伝統はなぜ新鮮であり続けられるのか
反復することの大切さについて、世界的な舞踏家の田中泯(たなかみん・71歳)は、或るインタビューでこのように語っています。
「ダンスは、身体(からだ)からしか始まらないことですからね。
そのカラダに、今度はカラダだけではダメだというダンスもある。
その両方がそろってダンスなんです。
それこそ修行と呼んでいいんじゃないかと思うんです」
カラダとココロの合致したダンスを日々探求する行為を、田中泯は「修行」と呼んだあとに、核心にせまる次の言葉をつぶやきます。
「伝統の世界も、毎日毎日同じことをやらせる。
もう、飽きもせず同じことをやらせる。
やる方も、飽きもせず同じことをやる。
でも、ここに秘密があると思うんです」
伝統世界の対極にあるとも思える現代舞踏家の言葉だけに、含蓄があります。田中泯は、その秘密とは何かまでは語りません。それはそれぞれの身体(=精神)の内側に、個別に宿るものだからです。同じことを反復する以外には、その秘密に触れることは決してできないと言っているのです。
田中泯の言う「秘密」とは極意であり、真理でしょうか。平たく言えばコツです。おそらくその「秘密」も一つや二つではありません。一生探求し続けても到達できないほどの、深遠な「秘密」がある習い事やスポーツは決して廃れないのです。
■還るべき山
ここで言うダンスを、山登りに置き換えてみて下さい。あるいは、あなたが夢中になっていることでもかまいません。繰り返し練習することの大切さが、少しは理解できるでしょう。
子どもにとって重要なことは、ピークハントではありません。親ならば、子どもと登る山は子育ての延長だと気づくはずです。繰り返し登る山で、親子がどんな時間を共有し、なにを子どもに学ばせるかの方が遥かに大切なのです。
どんなにギクシャクとした親子関係でも、何度でも振出しに戻ってやり直せる場所があればこそ、親子は親子であり続けられ、子どもは安心してそこへ還って行けるものです。学校や会社、あるいは社会では、残念ながら同じステージにとどまることを許してはくれません。
けれども山は、繰り返し訪ねる者を拒みません。繰り返し登る山によって、人は癒され、磨かれ、新しい自分を照らしてくれるのです。子どもにとっても、親にとっても、還るべき場所を持つことはとても豊かなことであり、それも反復することの神髄の一つだということに気づいてほしいと思います。
2016年9月20日
親子山学校
関良一