ジャコメッティのポジション
東京・国立新美術館で開催中の『ジャコメッティ展』を見ていて、気づいたことがあります。スイス出身の二十世紀の彫刻家アルベルト・ジャコメッティの作品は、人物を針金のように極端に細長くした彫刻で知られています。その細さは正面から眺めることで際立つのですが、角度を変えて見ることで作品の精緻さや表現力を感じることがあります。たとえば、ジャコメッティの作品を真横から見ると、細さとは別の、モデルに込めた「意志」のようなものが伝わってきます。そうやって真横から眺めているうちに、腑に落ちることがありました。
親子山学校では毎年春や夏に長野県・入笠山のマナスル山荘本館での親子合宿を行っています。山荘ではオーナー・山口信吉さんによる「山登りの基本の基本」を学ぶ座学と実地があります。その講習で山口さんが度々取り上げるのが、歩くときの「理想的な姿勢」です。理想的な顔の角度について山口さんは、「しっかりと顔を上げる(起こす)のが正しい姿勢。よくアゴを引いて…というけれど、あれは間違い。むしろアゴを少し突き出すくらいでいいのです」と教えてくれます。
この話のときに、山口さんは(私のお気に入りの女優)オードリー・ヘップバーンの横向きの写真を見せながら、「顔を横から見たときに、耳の穴と鼻の穴を結ぶ線が水平になっているのが正しく美しいポジション」という趣旨の説明をします。そうすることで自然と姿勢も良くなり、視野も高くとれるので、山歩きにも最適というわけです。ジャコメッティの彫刻が、マナスル山荘本館の山口さんの話とピタリと重なった瞬間でした。
ジャコメッティの彫刻を真横から見ると、ほぼすべての作品が理想的な顔のポジションを保っています。つまり、耳と鼻を結ぶラインがきれいに水平になっているのです。ジャコメッティにとっては無意識にやったことかも知れませんが、人間の正しい姿勢とはどういうものかを潜在的に知っている彼には、当たり前のフォルムなのでしょう。アフリカのマサイ族なども実に姿勢が良いですよね。決してアゴは引かずに、しっかりと顔を起こしているイメージです。欧米人には普通にとれるこの理想的なポジションも、現代の日本人にはなかなか理解されていないようです。ネットなどで「正しい歩き方」を示す図解を検索してみると、大半が「アゴは引きましょう」と教えています。なぜアゴを引かなければならないかの説明がありません。
極端に細長くデフォルメされたジャコメッティの彫刻が、決して奇異なものとして感じず、むしろ美しいと感じる要因には、人物の顔が理想的なポジションであることに尽きると思います。登山においても、アゴが引けて、うつむき加減で、肩を落とし、腰を折って歩いている姿には、楽に歩いているイメージとは程遠いものがあります。上体を起こし、胸を広げて歩けば呼吸も楽になるし、顔を起こすことで気管も広がるでしょう。視野も高くなり、視覚から入る情報量もアップします。マイナス要素はほとんどありません。
「苦しいときほど、顔を上げて前を向いて歩こう」
何気なく子どもたちに言ってきた言葉は、間違いではなかったようです。