コラム

低山から高山まで、 仲間の親子と登る山々で出会ったこと、思索したこと、 憧れること、悔やむこと、 そして嬉しかったことを綴ります。 親子山学校を貫くインティメイトな山の世界・・・。

編笠山(八ヶ岳)に登る子どもたち


漢字の母国である中国の何百年、何千年も前に書かれた書などを手本にして、同じようにに書くことを「臨書(りんしょ)」と言います。臨書は、書の古典や技術を学ぶ者にとって大切なものです。書家の石川九楊さん(1945年生まれ、福井県出身・京大法学部卒)が、臨書についてこう話しています。

「臨書をすれば筆がどういう角度で入って、どういう速度でどのくらいの力で、どう回っていったかまでわかる」

小学校に上がったばかりの子どもでも、漢字を最初に習う時は必ず正しい書き順を教わります。石川さんは、漢字の書き順さえわかっていれば、「空海が何を考えていたか」さえ想像できると言います。書道の奥深さと真髄にも通じる、とても興味深い話です。

石川九楊さんのお話で、私にもピンと来ることがあります。それは、登山にも「書き順」に当たるものがあるということです。それが、歩き方です。歩き方を見れば、その人の心持ちや力量が分かるのです。

普段、私たちが平地を歩いている時は、ほとんど無意識のままに歩いています。誰も歩き方に、漢字の書き順のような決まりがあるとは考えていません。しかし、山登りの時は少々意識的に歩くことになります。これを意識して歩くのと、何も意識せずに歩くのとでは雲泥の差があります。

山では、なるべく段差の少ない平らなステップ(足場)を選び、たとえジグザクになっても一番楽なラインを選んで歩く方が安全であり、カラダへの負担も軽減され、山登りを楽にしてくれます。

これが身についている登山者は、どんな山でも自分にあった最適なステップやライン取りが自ずと決まってきます。これがいわば山登りでの「書き順」です。

デタラメな書き順で書かれた書が、書の体をなさないように、デタラメな歩き方で登る山登りは不安定で危なっかしく、いつまでたっても進歩はありません。

歩き方が安定しているか不安定かは、その人の歩く姿を後ろから見るとわかります。危なっかしく見える人の歩き方は、ステップの選択に一貫性がなく、足運びもバラバラです。行き当たりばったりという歩き方です。平気で浮き石の上に靴を乗せたり、段差も避けずに直線的に登ったり、その都度上体がぐらつきます。「あゝ、この人は何も考えていないな」とすぐに分かります。

反対に「歩きの書き順」が身についている人は、ステップの選択もそつがなく、体幹は常にスムーズに移動して行き、安定感があります。姿勢も自然体が保たれ、見ていて美しいと一目で分かります。山を歩く姿が美しいということは、その人の心身が安定しているということになります。これは大人であろうと、子どもであろうと同じです。

書き順が分かっていれば、空海の心の中も覗けると言った石川さんは、書は「形で見ないで、過程(プロセス)で見る」ものだと説きます。

山登りも形や結果ではありません。どの山に登ったかではなく、「どのように山に向き合い」「どのように山を歩いたか」の過程が、その人の山登りとなり、それが美しい登山になるのだと思います。

【参考文献】
本稿は『日経おとなのOFF』2017年8月号「書の楽しみ方対談「書」ほど楽しいものはない! 」( 書家  石川九楊さん  ×  コピーライター  糸井重里さん)にインスパイアを受け、一部引用を交えて書きました。