コラム

低山から高山まで、 仲間の親子と登る山々で出会ったこと、思索したこと、 憧れること、悔やむこと、 そして嬉しかったことを綴ります。 親子山学校を貫くインティメイトな山の世界・・・。

縦走で四つ目の山、高尾山に到着した子どもたち


「山で子どもを叱るということ」

先日、土日の二日間で行った、キッズクラス恒例の陣馬山から高尾山まで15キロの縦走は、参加したすべての子どもたちが最後まで立派に歩きました。わずかに一人の4歳の女の子だけが、靴擦れが酷くなって高尾山でリタイアしましたが、それがなければ彼女も間違いなく踏破していました。二日に分かれて縦走に参加した親子は130名でした。その半分が子どもです。4歳から(実際には1名3歳児も混じっていた!)小学生までの子どもたちが、親と一緒に一丸となって縦走します。

この縦走をやり遂げるまで、「果たして大丈夫かな」と思える子どもは大勢います。でも私は、子どもたち全員に15キロを歩ける体力があると思っています。子どもたちに足りないものがあるとすれば、それは気持ちだけです。

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キッズクラスは、毎年4月に入会してくる親子と、二年目、三年目と継続参加する親子とが一緒になって、毎月一回の日帰り低山トレッキングを行っています。

子どもは4歳から小学校の低学年くらいまで。幅のある年齢の子どもたちが、それぞれの親と一緒に参加しています。

毎年4月から10月までの7回のトレッキングで、11月に迎える15キロの縦走に向けて根気と体力を養い、山を恐れずにどんな局面でも落ち着いて歩けるように経験を重ねてもらいます。

雨が降ろうとヤリが降ろうと、よほどの事がない限りは、天候にかかわらず山登りを実施します。そのためには、親子とも最低限のしっかりとした装備で臨んでもらいます。

山で絶対に事故に遭わないために、身につけてほしい注意事項や山歩きの基本も、カラダでしっかりと覚えてもらいます。それを実際の山で何度も反復しながら、山歩きの基本がカラダに浸み込むまでに必要な最低限の期間が、前半の七ヶ月です。(もちろんそれでも済みませんけどね)

4歳児と小学生とでは、社会的な適応能力や判断力もまるっきり違います。

でも、毎月の月例トレッキングでは、そうした子どもたちの上下の垣根や能力の差はすべて取り払い、学年、年齢に関係なく対等に接します。縦割りのプログラムは一切なしです。

そうは言っても、まだ幼い子どもほど歩く時間が長くなったり、きつい登りが連続すると、すぐに「疲れた」、「あと何分?」、「もう歩けない」など、親に向かって次々と不平不満を口にします。

ある程度の期間までは、私も黙って見過ごします。しかし、半年くらい経っても相変わらずその調子の子どもには、歩みを止めてその子に向き合い、キツく叱ります。要は「四の五の言わずに黙って歩け」ということですが、現場ではそのワケをじっくりと話す時間はありません。

私が子どもたちに心から伝えたい事とは、こういうことです。

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君はいつもそうやって、ちょっと苦しくなるとすぐに不平不満を口にするよね。

毎回、同じような場面になると決まって文句を言うよね。

どうだろう、苦しくなってもしばらくは我慢して、歯を食いしばって歩けないかな。

確かに君にとっては苦しいことかもしれないけど、そこでいつも同じように文句しか言えない限り、その壁はいつまで経っても君には越えられないんだよ。

毎回文句を言いながら歩くのと、我慢して歩いてみるのとでは、その先にある風景がまるっきり違うんだよ。

一度でもいいから、歯を食いしばって壁に立ち向かって歩いてごらんよ。失敗してもいいから、疲れ果ててもいいから、文句を言わずに最後までやり切ってみなさい。

それで、上手く壁を越えることができたなら、君は次の高くて大きな壁にも挑むことができるんだ。

でも君はその壁の前でも跳ね返されると思うけど、最初に壁を乗り越えた経験があれば、新しい壁を越えられる方法も必ず見つかるんだ。

そうやって、目の前に現れる壁を、一つひとつ乗り越えて行くたびに、君には自信がつくし、コツもつかめるようになるんだよ。

でも、こうしていつも同じところで、同じように文句を言う限り、残念ながら君はその苦しさからはいつまで経っても逃れられないんだ。そこから先の世界へは、一歩も進めないんだ。これは誓ってもいい。

なんにでも不平不満しか言えない人間は、めんどくさい奴だなあと思われて、やがては誰からも相手にされない人になってしまうんだよ。

その甘えが許されるのは子どものうちだけで、君はまだ分からないかもしれないけれど、残念ながら君はいつまでも子どもではいられないんだ。

でも、子どものうちから一つでもたくさん我慢することができたり、我慢した結果に素敵な自分に変身できたなら、それは全部君のチカラになるんだよ。チカラというのは、君が乗り越えるだけのものじゃなくて、未来の誰かを助けるためのものでもあるんだよ。

苦しいのは君だけじゃないんだ。君が苦しいとき、同じように苦しいと思う仲間がいるんだ。そのときに、君が真っ先にその苦しさに耐えてみせる勇気を持ってほしい。

勇気を持つということは、「弱い自分を素直に認める」ってことなんだ。

自分の弱さを認めることが出来ない人は、本当の強さを手に入れることは出来ないんだよ。

苦しい思いをして乗り越えたなら、君は自分と同じように苦しんでいる仲間の存在にも気づくはずだよ。

そうなれば君は、「大丈夫だよ。ボクも前は同じように辛かったけど、がんばれば君にもできるよ」と声をかけて、仲間を励ますこともできるんだ。それが君のチカラであり、仲間からも信頼される人になっていくんだよ。

成長するってことは、つまりそういうことなんだよ。苦しんで失敗して、泣いて、恥ずかしい思いもいっぱいして、はじめて人間は成長するものなんだ。

君が弱い自分を素直に受け入れることが出来たなら、この先君の行く手にどんな壁が現れようと、君はきっとその新しい壁を乗り越えたり、上手に交わすことができると思うよ。

壁の向こう側へ、君と一緒に行きたい相手が現れたなら、君はきっとその人にこう言えるはずだよ。

「大丈夫だよ。ボクも最初は出来なかったけど、君も必ず出来るよ」と。

そうなると、君はますます本物の強くて優しい人になれると思うよ。今から、そういうカッコいい子を目指そうよ。

この話、少しだけわかってくれたなら、あと30分、静かに歩いてみようか?

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私は、歩くうちに苦しくなって、つらくなって泣く子を叱ることは決してしません。ほんの少しの辛抱が出来ずに、いつも不平不満を言い続けることを叱るのです。

一方で、こうすれば大人から褒めてもらえるとか、こうすれば大人に叱られずに済むというような子どもの賢さほど見苦しいものはありません。そういう習慣を身につけた子どもは、私にはすぐに分かります。でもそれは子どものせいではありません。いけないのは親や大人や社会ですよね。

ですから、私が叱っているのは実はその子ではなく、山では親です。さらに言えば、当事者だけどこかに呼び寄せて、こっそりと叱ることもしません。現場(山)にいるすべての仲間にも、可視化できる状態で叱ります。

だから私は本気でやらなければなりません。

大勢の前で叱るのですから、そう言う私も「お前はどうなんだ」と常に問われるわけですから、うわべだけの言葉は通用しません。叱るときは、心の底から全力で叱ります。相手が子どもだろうと、親が会社の社長や大学教授だろうと、親子山学校では手加減しません。

子どもはたとえ返す言葉がなかったとしても、こちらが真剣に向き合えば、子どもは感じ取ってくれます。感じ取るチカラは、大人よりも優れているかも知れません。聞いている周りの親子も、これは他人事ではなくて自分たちも問われているんだなと気づいてほしいのです。

山では一切の誤魔化しが通用しません。

誤魔化したものが積み重なれば、一時は逃れられますが、それはやがて決定的なウィークポイントとなって、いつか必ず手痛いしっぺ返しを喰らいます。

何事も誤魔化してはいけないという、そこが山の良いところなのです。

そこは、全身全霊をかけて相手を叱っても良いほどの、言い方を変えれば理想をどこまで追求しても良いほどの、ものごとの土台や本質に親子で向き合える場所だと私は確信しています。

子どもに屁理屈はいりません。失敗しても立ち向かったことだけが、成果となって次に生かされるのです。

子どもが生きることに必要な最初の大切なものは、全部山にあると思います。

親子山学校
関良一


沢沿いの道をゆく子(入笠山・テイ沢)