コラム

低山から高山まで、 仲間の親子と登る山々で出会ったこと、思索したこと、 憧れること、悔やむこと、 そして嬉しかったことを綴ります。 親子山学校を貫くインティメイトな山の世界・・・。


コラム「情報と極意」

先日、キッズクラスの親子たちと一緒に、ウィンターシーズンを迎えたばかりの入笠山に登り、マナスル山荘本館に泊まりました。

毎回、親子山学校の活動に理解を示してくれるオーナーの山口信吉さんと、ご両親の温かいもてなしで、参加した親子は初めての雪山も山小屋も心地よく過ごすことができました。

夜は山口さんを交えて有意義なお話がたくさん聞けました。参加した親たちは、それぞれに得るものがたくさんあったと思います。

話の輪の中にいた私でしたが、翌日になってなにか違和感というか、しこりのような感触が私の中に湧いてきました。あの夜に語られた山口さんと、それを聞いていた親御さんたちとの間に、ある種のひずみのようなものがなかったろうか。それは一体なんだろうかと、ずっと考えてしまったのです。

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その夜の話題の一つに、フルマラソンのトレーニングの話がありました。山口さんは登山ばかりでなく、トレイルランやマラソンにも詳しい方です。山口さんは練習でも本番でも、「常に同じ心拍数で走れるようになることが大事だ」という主旨の話をされました。たとえスピードを上げても、心拍数はいつもと変わらずに走れる身体にするということです。これは非常に重要なポイントです。

常々、山口さんは「登山が出来れば、走ることも上達できる」という主旨のことを話されています。ですから、私の中ではその夜の「同じ心拍数を保て」ということに、合点のゆくものがあったのです。

アスリートでもない私が、年々衰えていく体でありながら、いつも変わらないペースで山登りができるのも、まさに心拍数を一定に保っていればこその事なのです。

自分にとってはもちろん、親子山のメンバーを率いる場合でも、常に最適と思うペースを維持して歩きます。11月にキッズクラスが行った陣馬山から高尾山までの15キロの縦走で、年齢も体力も異なる130名の親子が全員同じペース、同じ時間で縦走できたのも、常に同じ心拍数で歩くこと、つまり一定のペース配分で歩くことにみんなで取り組めた結果とも言えるのです。

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山口さんの語る歩く動作についての理論は、日頃の親子山の皆さんが出来ていない事を見事に裏打ちしてくれます。

ルートの状態や多少の天候に左右されることなく、いちいち逡巡しなくてもカラダが状況に素直に対応できるように出来ていれば、高尾山に登るときも八ヶ岳に登るときも、登り方(歩き方)はまったく同じで済むのです。

その重要なポイントの一つが、あの夜の「同じ心拍数で歩きなさい(走りなさい)」という山口さんの指摘ではなかったでしょうか。

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しかし、その話の流れの中で、居合わせた親御さんたちはマラソンなどを走る場合、「どんなシューズが良いのか」ということに関心が移りました。

これに対して山口さんは、良くないシューズや理想的なシューズの具体例を詳しく説明してくれました。それを聞いた親御さんたちの関心は、具体的に示されたメーカーのシューズに集中していたように感じられました。それは、お店やメーカー、ネットでは決して得られない有意義な情報です。そこに飛びつく気持ちはよくわかります。

ですが、その理想的なシューズが、万人に有効かどうかは別な話です。

どんなシューズが良いかとか、どんなトレーニングが良いかというような情報も、ものごとの本質を身体で会得出来ていない限り、所詮は猫に小判で終わるのではないでしょうか。私の中に残った違和感とは、つまりこの情報を極意と履き違えてしまうような現代人の反応に対するものだったと言えます。

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山口さんはたまたま「どんなシューズが良いですか?」と尋ねられたので、それに答えたまでであって、そのシューズでなければならないとは一言も言ってません。

同じ文脈の中で、山口さんはもっとも大事なことをちゃんと語っています。その一つが、「常に同じ心拍数で走る(歩く)こと」であったと言えます。そこに、極意があるのではないでしょうか。

どのメーカーの、どのシューズが良いかというのは、単なる情報です。情報だけを手に入れても、極意を掴めたことにはなりません。

情報とは「知る」ことであり、極意とは「学ぶ」ことと私は理解しています。物事を知るだけでは、学んだことになりません。学ぶとは、学ぶ前と学んだ後の自身が変わっていなければなりません。

自身とは、心であり、身体でもあるのは言うまでもありません。新しい自分に出会えることが、学ぶということであり、新しい装置や道具を手にすることとは別なのです。その真髄を開く鍵を身体の中に獲得するのが、極意と呼べるものだと私は思います。

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普段の山で、親御さんや子どもから「どうすれば上手に歩けますか」と尋ねられても、私は「足元の石ころ一つ動かさないように、やさしく歩きなさい」というように、禅問答のような答え方しか出来ません。私の曖昧模糊とした真意を、いつも理論で明快に補ってくれるのが山口信吉さんです。

今年の夏に行ったキッズクラスのマナスル山荘本館での夏合宿でも、山口さんの様々な話や実地で示してくれた動作を、私はその後も何度も思い出しながら山を歩いています。

それがやがて実感を伴う確かなものになってくると、理屈や情報はもはや必要のないものになります。カラダが心地よく感じてくれることを、ただ素直に優先してあげるだけでよいのです。

そうした「基本の基本」を、山口さんは話の中で必ず示唆してくれます。そこを聞き分けることが大切です。ですから、どのシューズが良いかといった情報は、実は意味のないものと受け止めるべきではないでしょうか。

基本の基本を愚直に守って実践するだけでも、大きな発見となって効果を上げてくれます。それも、ドラマチックに可視化されて現れるものではありません。ある日気がついたら、自然と身についていたというものではないでしょうか。

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山の達人たちほど、普段は長靴や地下足袋など安価なもので山を歩いていたりします。それは、彼らが歩く極意をすでに掴んでいるからであり、道具や装備よりも大事な歩き方の基本を会得しているからではないでしょうか。

あるいは、八十も過ぎたような名もない登山者が、あり合わせの衣類や簡便な装備だけで、ひょいひょいと険しい山へ登って行けるのも、同様に彼らなりの極意を掴んでいるからです。

こうした人々は、何ものにも逆らわず、自然に身体を合わせられる行為こそが、自然にも自分にも負荷を与えないもっとも楽な歩き方だと分かっているのです。

本質はどこにあるのか。そこを見誤ると、行きつく先はまるで違う結果になります。お金をかけることや、高品質な装備を身につけることが、身体能力を向上させるのではありません。

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現代に生きる私たちは、様々な場面で情報と極意を見分けるチカラが試されています。しかし、情報は簡単に得られても、極意だけはコピーペーストするように誰もが同じものをシェアできるわけではありません。

同じように極意を説いてみたところで、受け取る側によっても一人ひとり違った解釈になって当然です。なぜならば、私の心臓やカラダと、あなたの心臓やカラダは同じではないからです。

けれども、人が飛びつきやすいのは、目に見えるものです。目に見えるものとは、つまり情報です。人為的に可視化されたもの、人為的に言語化されたもの、人為的に製品化されたものは、すべて情報です。(この文章も、もはや情報となって行きます)

一方の極意は、情報のように目には見えません。極意は、身体行為を通じてしか感じることが出来ず、見えてこないのです。それも不断の反復を通してようやく掴めるものであったりします。けれども、現代人は見えないものに対しては、意味のないもの、効率の低いものとして無関心である場合が多いのです。

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しかし、世の中を、あるいは人間の身体を、目に見えるものだけで説明しきれるでしょうか。目には見えないものにこそ、真の姿が宿っているのではないでしょうか。極意を掴むとは、暗闇の中で見えないものを探求したり、触れようとする行為を指すものですが、修験者のような修行を積まないまでも、本来誰もがアプローチできる行いではないでしょうか。

親子でひたすら山を歩くことで、多くの気づきや学びがあると信じて活動を続けている親子山学校ですが、特別な登山などを目指さなくても良いのです。たとえ可視化、言語化されなくても、歩き続けるうちに心地よい感触が自分の身体に宿っていることに気づく日が来ます。

その実感が伴ったとき、そこにはピカピカの最新モデルの装備は一つもないはずです。それが十年かかろうが、五十年かかろうが良いではありませんか。山登りは一生を通じて出来る愉しみです。たとへ百年かかっても、自然や身体を極めることに終わりはありません。極意とは、そのようなうちにフラッと訪れる寸志のようなものだと考えます。ともかく呼吸を乱さずに、素直に歩くことです。

親子山学校
主宰 関良一


雨の中の陣馬山(2015年11月キッズクラス縦走より)